RaIN-stEP
高い高い秋の空に、武虎は紫煙をくゆらせる。
院内は煙草を吸う場所が少なくて困る。
ボロ雑巾のようだった武虎の身体はこの一ヶ月の間でずいぶんと良くなった。
病院に担ぎ込まれた武虎は何とか失血死を免れ、こうして医者の目を盗んで煙草を吸いに出れるぐらいには回復した。
ほとんどの怪我は治ったが、肩の傷だけは痕が残るそうだ。武虎にとってはどうでもいいことだったが。
茶色い紙で巻かれた煙草に口を付ける。下っ端が見舞いに持ってきてくれた煙草は何故か砂糖がまぶしてあってひどく不味かった。
「マルボロが吸いたい……」
武虎はつぶやいて、見上げる秋の空を瞼で覆う。
そこには白濁した闇があった。
† † †
そこには白濁した闇があった。
それは車のヘッドライトの灯りなのだと、ルノは重い瞼を持ち上げて知った。
高級車でも何でもない、普通のファミリーカーが砂利を噛みながらルノの前で止まる。
───ああ、なかなか簡単には死ねないものだなぁ。
ルノは嘆息し、手をついて体を起こした。
止まった車から、二人の男が出てくる。一人はくたびれた外套を着た中年男。一人は棒付き飴をくわえた若い男だ。
「呀、萬一真的只一人譲呉葵組毀滅了。前途可怕的凶手也在。
(やれやれ、まさか本当にたった一人で呉葵組を壊滅させてしまうとは。末恐ろしい兇手がいたものだな)」
そして、その二人に護られるように現れたのは、一人の老人だった。
日本人ではないだろう。白髪白眉、典雅な長袍(ちょうほう)に身を包んだその老人は、這いつくばったルノを前に手を差し伸べた。
「晩上好、令愛。背後所謂火、是真的艶麗的送行。
(こんばんは、お嬢さん。背後に炎とは、何とも派手なお見送りだね)」
彼と同じ言葉。なぜか懐かしささえ感じるその声音に、ルノは寝起きの不機嫌さで答えた。
「分からないよ。日本語で話して」
「……。これは失礼した。君の眼は我々と同じ『飢え』をしているのでね。てっきり同郷の者かと」
ルノは老人の手を借りることなく、自力で立ち上がってみせた。
「おじいさんは誰?」
「私は武龍。その銃の持ち主の親代わりだった者だ」
武龍と名乗った老人は、慈しむようにルノの銀銃を眺めた。
「私を殺しに来たの?」
「何故、そう思うのかね?」
「わたしが死ねば、真相を知るものは誰もいなくなるから」
「ふむ。その通りだね。後ろの二人は私の部下だし、障害になりうる者は君一人だ。だが、君は真実を知らない。殺し殺されるのはその後でも構わないのではないかね?」
首を傾けるルノに、武大人は告げた。
「今回の騒動。そのすべての発端は、君の『勘違い』だ。君の父親はヤクザに殺されたのではなく、強盗に刺されて死んだだけだ。それは彼らが確認している」
老師の後ろに控えていた中年男が、折りたたんだ新聞を放り投げた。水溜まりに落ちて、ふやけて広がる。
赤い丸で印を付けた記事に、彼女の『父親』についてが書かれてあった。
たった五行の短文が、全てを物語っていた。
「故に、君は自衛の手段を執(と)ったのではなく、数十人にも及ぶ人間を徒(いたずら)に虐殺したのだ。歴史まれに見る大量殺人犯、それが今の君だ」
無慈悲な解答。ルノはぼんやりと滲み濡れた記事を見つめていた。
「驚いたかね? だが、君のその愚かな勘違いのおかげで我々は敵対勢力を弱らせることが出来た。予想以上、いや、想定外の成果だ。そして私は幸運にも、君という希有な殺人鬼と対面する機会を得た。……いや、違うな。君は『鬼』などよりも遙かに美しい。黒月の似合う、生まれついての殺人凶よ」
至高の彫像、いや深窓の姫君を拝顔するかのように、老人はルノを眺望した。
「さて、お嬢さん。私は君の功労に対して報償を与えようと思っている。君は今や孤児で、犯罪者で、死にかけの身だ。が、君が望むのなら、私は君を元の生活に限りなく近い状態に戻してあげられる。君は悪夢を忘れ、もう一度陽だまりの世界へ還ることが出来る。さあ、どうするかね? 小さなお嬢さん」
中国武侠の申し出に、ルノは枯れた声で答えた。
「ウーフー……」
「うん?」
「わたしはウーフー。『そういうこと』だよ、おじいさん」
「……。君は想像以上に愚かで、どうしようもなく賢すぎる娘のようだね」
老人は軽く息をついた。ルノはニィと笑った。
「わたし、かわいい声で鳴くよ? だから、飼ってくれるよね?」
微笑んで、今度こそ彼女は力尽きた。
炎に招き寄せられた雨が蕭々(しょうしょう)と地面を濡らし始める。
遠い場所で、黒い子猫が鳴いていた。
ルノは秋の長雨に拍たれ、あの夜の親猫のように死んだ。
† † †
瞼を開ける。そこには相変わらず、底抜けに青い空が広がっていた。
「んん……!」
武虎は背伸びをして、背骨をぱきぱきと鳴らした。
入院は今日で終わり。手首のギプスは明後日にはとれるらしい。
さあ、ルノを迎えに行ってやろう。
入院中、ルノの世話を頼んだ下っ端は顔中ひっかき傷だらけになって『お願いですから早く帰ってきてください』と涙ながらに訴えてきた。『帰ってこい』という言葉が嬉しかった。
いつの間にかフィルターだけになっていた煙草を揉み消し、新しい煙草に火をつける。武虎は一息吸っただけのそれを屋上の柵に挟ませた。
「線香よりこっちの方が好きだよね」
武虎は誰もいない空に微笑み、軽い足取りで屋上を降りていった。
───蒼穹に紫煙はのぼる。
風が、応えるように煙をさらった。
《Rain Drop 第一話 了》